柳生松右衛門尉家信

 柳生松右衛門尉家信 (やぎゅうまつえもんのじょういえのぶ。旧姓、大野家信)は、流祖上泉武蔵守信綱、第2代柳生但馬守宗厳に師事して刀槍術を学び、天正15年2月吉日(1587年)、宗厳の一番弟子として『一國一人の皆傳印可』を授けられ、新陰流兵法正統第3代を継承した天下無双の剣聖である。


 柳生宗厳は、柳生家信へ与えた印可状の中で、『私が今迄印可したのは、あなた一人である』と明言をしている。


 印可状のとおり、幾多の門弟はいたものの、宗厳が柳生一門で真実の人と認め、印可の最高位である『一國一人の皆傳印可』を一番最初に与えた正統継承者が、剣聖柳生家信であった。


(この時、柳生一門で後に活躍をする、江戸柳生の祖・柳生宗矩は16歳、尾張柳生の祖・柳生利厳は8歳である。)

 

 また、柳生家信は、戦国時代に、天下一の薙刀の名手と讃えられた穴澤浄見秀俊から新當流長太刀(穴澤流薙刀)を、新陰四天王の一人であった疋田豊五郎景兼(上泉信綱の甥)から、上泉直伝の新當流鑓術を相伝し、若くして新陰流と新當流の奥儀を極めた類いまれなる達人であった。

 

 柳生家信伝の新陰流は、江戸柳生家の『江戸柳生流』・尾張柳生家の『尾張柳生流』が成立する慶長以前の古伝の新陰流で、天正年間、大和国小柳生庄で伝えられていた初期の『大和柳生流』であり、現存する日本最古の柳生新陰流である。

 

 上泉信綱が戦国時代に活躍していた荒々しい古式の新陰流の風格を今なお色濃く残しているのが特徴である。

 

 筑前福岡藩の兵法師範家であった有地家に伝わる『新陰流正傳系図』『新影流傳来略誌』(熊本県立図書館蔵富永家文書)、柳生家歴代の記録をまとめた『玉栄拾遺』を始めとする江戸時代の文献によれば、達人大野家信は、もとは剣聖上泉信綱の直弟子として刀槍術を学び、上泉や疋田と共に大和柳生家に滞在したおり、当主柳生宗厳と厚い信頼関係が芽生え、以後、そのまま柳生の里に残って、忠臣として柳生本家を支えたと伝えられている。

 

 大和柳生の地で、柳生宗厳の高弟となった大野家信は、卓越した実力とその仁徳を高く評価され、後に宗厳に請われて養子となり、大和柳生家へ迎えられた。


 そして、宗厳の高弟の中で唯一『柳生』姓を名乗ることを許されて、宗厳から『一國一人の皆傳允可』を賜るとともに、『柳生松右衛門尉家信』として、流祖伝来の腰を深く落として斬り勝つ、荒々しい古傳の新陰流を墨守した。


 柳生家歴代の歴史を記した『玉栄拾遺』という古い文献に、大和柳生家の名誉を守る為に命を賭して奮戦した、剣聖柳生家信の有名な逸話が残されている。


 天正年間、京都において、眼流の根岸矢柄という武芸者が現れ、名を挙げようと名門の新陰流を嘲笑し、いくつもの高札を立てて、師範家である柳生家へ挑発を繰り返した。宗厳の一番弟子であった柳生家信は、高齢の柳生宗厳に代わって、京都六角堂において、敵対する根岸矢柄と果たし合いをすることとなり、試合に勝利して柳生家の名誉を守り、以後、柳生家最大の功労者となったと言い伝えられている。


 この逸話を裏付ける様に、柳生家信の印可状には、京都での果たし合いの出来事が書かれており、果たし合いで示した比類のない名誉と覚悟に対して、宗厳は柳生家信へ深い感謝の気持ちを語っている。

 

 皆傳印可の後、柳生家信は、宗厳の名代として、当流4代有地内蔵丞元勝を帯同して、長州萩藩で毛利家の家臣となり、後に、筑前福岡藩を治めていた恩義ある黒田家へ古傳の新陰流を広めた。


 柳生家信の新陰流は、有地家、三宅家の師範家を経て、黒田藩主黒田長政(疋田新陰流の免許皆伝者)の子孫であった第14代濱田勢州が黒田家の疋田新陰流と共に相伝し、蒲池派、渡邊派の師範家からも皆傳允可を受けて、古傳の新陰流を正しく継承した。

 

 現在は、黒田藩三大流儀である『 新陰流、新當流、二天一流 』を修めた第15代光武勢州斎藤原秀信が師の意志を引き継ぎ、正統師範家として、古の技を現代に伝えている。




《注釈》

 柳生松右衛門の読み方については、『やぎゅうしょうえもん』と呼ぶ会派が一部散見されるが、正しくは、『やぎゅうまつえもん』である。


 柳生松右衛門家信(大野松右衛門家信)の孫である文右衛門が、江戸柳生家に遠慮をして、後に柳生姓を返納して改名をしたという逸話があり、尊敬する祖父の名前である松右衛門(まつえもん)の『松(まつ)』と大野姓の『野(の)』の字を拝領し、そのまま折衷して、家名を『松野(まつの)』と改名した歴史がある。


 松野姓の読み方は、『しょうの』と読む事はなく、『まつの』と読む以外にはない。また、松右衛門の読み方は、古来より『まつえもん』と読ませる方が主流である事からも明らかである。


 当会にあっては、柳生家の名誉を守った正統第3代柳生松右衛門尉家信を中興の祖としており、歴代の先師が代々言い伝えてきた正しい呼称を大切にしながら、伝統芸能の伝承に努めている。




『一國一人皆傳印可状』の写し